正式ではないお料理〜厨房編

ひさびさになってしまいましたが、また、正式ではない「なんとか」という事で、今回は「正式ではないお料理」というお題です。

 

そもそも「正式なお料理」というのはなんなのでしょうか?

 

調理師免許を持っている人のお料理?皇室の晩餐会のフレンチ?お料理学校で習ったお料理?レシピアプリで上位のお料理?

 

いろいろ考えると、キリがないのですが、極貧の自分としては、正式なお料理というものに触れる機会そのものが少ないのです。

 

自分でつくるお料理というのは、かつてはマイナーなやり方でしたが、最近、市民権?を獲得しつつある、保温調理とか、ポリ袋調理とか、そういうのが好きです。

 

真空調理というと、用語自体が混乱しているので、難しいのですが、真空調理で一般的なものの一つが、「レトルト食品」だと思います。

 

レトルト食品というのは、昔はお料理とすら思われていませんでしたが、レトルト食品は、種類も豊富になって、いまなお進化しているジャンルだと思います。

 

レトルト食品だと、多分、最初に広まったのは、カレーのレトルト食品というか、「ボンカレー」がレトルト食品の代名詞になりました。

 

いまでも、カレーのレトルトは、「ボンカレー」と呼んでおられる方も多いと思います。

 

かつては、レトルト食品というと、主婦が使ったりすると、軽蔑されたり、夫婦関係の問題になったり、と、そういう時代があったと思います。そして、今では、ボンカレーという呼び名は生き残っているのに、主婦という在り方のほうが、マイナーになりつつある、というか、専業主婦、といえば、上級国民?とすら言われる様な時代になりました。

 

専業主婦、というと、それで対価がある訳でもなく、シャドウワークの一つの在り方、ということになるのかもしれません。

 

専業主婦という在り方が、絶滅危惧種?というか、お勤めにも出て、残りの時間が少ないなかで切り盛りをしないといけないので、レトルト食品というのは、冷凍食品と同様に、暮らしを支える存在になっていると思います。

 

そうなると、レトルト食品というのは、生活にあって、正式な食品なのではないかと思います。

 

で、それなら、正式な料理というのは、いったい何なのだ?と思うのであります。レトルト食品は正式な料理ではないのか?と。

 

正式、というか、プロのお料理というのは、いろんなプロがあると思いますので、とりあえず、昔、テレビで観た、正式なホテルのコックさんの修行から考えてみます。

 

あるホテルのルポで、将来を嘱望されている若いコックさんの様子の映像をみたことがあります。

 

若いコックさんは、ひたすらおネギを刻んでいるのです。その量たるは、半端ではないおネギなのですが、仕込みに必要なおネギらしいのです。

 

しかし、これを観ていると、これ、機械とか、おネギを刻むだけの道具を使えば、もっとこの若いコックさんの能力を発揮できるのではないのか?と思ったりしました。

 

が、どうも、これが「修行」として当たり前の様なのです。少なくとも、その職場ではそうらしいのです。

 

何か、このおネギを刻む作業を楽にすれば、お客さまに出すメニューも、もっと付加価値の高いものを増やせて、お店の売り上げが伸びたり、お給料も増えたりするのではないか?と思ってしまったのです。

 

なんとなく、このおネギを刻む修行の様子が、体育会、とか、高校球児、とか、そういう言葉と結びついてしまうのです。自分の偏見だと思いますが...

 

正式なお料理だと、見えないところに手が掛かっている、という意味があるのか、正式なお料理にあまり触れたことのない自分としては、そういうものなのだろう、と思って?いや、それ以上想像すると、怖い、と思ってしまうのでありました。

 

それでも、この映像を思い出すと、なぜか、「竹槍訓練」とか「バケツリレー」という、戦争中の話を想像してしまうのです。それでB-29にやられて、日本の都市は焼け野原になって、ボロ負けしてしまうのです。

 

そういうことを想像すると、そのお店の料理長さんから「貴様!それでも軍人かーっ!」の一言で、殴られてしまうのではないか、と思ってしまうのです。

 

正式なホテルの正式なお料理には、あの時の映像から、その様に感じてしまうのであります。

 

で、おネギを刻み続けて、お店が「負けて」しまったらどうなるのでしょうか?あのおネギの作業が、お料理の付加価値を下げていた、となるとどうなのでしょうか?お店が負けてしまったら、文字通り、後の祭り、なのだというのに、竹槍でB-29を落とす?毎日が続いていた、となると、どう考えたらいいのでしょうか?

 

もう一つの映像は、正式なホテルの正式なお店ではないのですが、正式なフレンチのお店として有名らしいところのものがありました。

 

ホテルと違って、もっと小さい厨房なのですが、シェフが突然、隣りのコックさんにケリを入れて、「退場だ!退場!」と叫んだのです。

 

これは、仕込みの最中なのだと思うのですが、もし、お客さまが入っている時に、この声が聞こえたら、お店としてマズイのではないか?と思うのです。

 

しかし、このお店は、有名なフレンチの正式なお店だそうです。

 

ひょっとすると、シェフがケリを入れることで、正式であるためのお店の水準というものが保たれているのかもしれません。

 

こうなると、もう、モロに、「貴様!それでも軍人かーっ!」という、日本古来の伝統が、仕事のレヴェルを...?なのかもしれませんが、怖いのです。

 

また、これは、聞いた話ですが、ケリを入れるどころではなく〜別のお店の別の人の話ですが〜殴る、蹴る、流血する、骨折する、というのが日常!というお店があるらしいのです。らしい、というか、証言なので、らしい、ではないのですが...

 

なにか、テーマからズレて?しまいましたが、正式なお料理、の背景には、暴力?というか、修行がどこまで合理的か?とか、暴力でお店のレベルを保つ?とか、お料理とは関係なく、暴力が日常?となると、正式なお店で、正式なお料理を食べる、という気が失せてしまうのです。

 

暴力のはなしになってしまいましたが、どうなんでしょうね?

 

修行という名の暴力?やっぱり、日本軍、とか、竹槍訓練、とか、B-29とか、考えてしまうのです。

 

この続きのはなしがあるかもしれませんが、お料理ではなく、職場環境のはなしになってしまい、失礼しました。

 

仕切りなおしで、「正式でないお料理」の第二回があると思います。

 

お付き合い下さりありがとうございます。

正式でない暮らし〜古着編

正式でない日記、にお越し下さりありがとうございます。

 

正式でないのは、果たして自分だけなのか?と、疑問になることが、実はけっこうあるのです。

 

例えば、買い物。

 

自分は服、とか、あんまり買わない、というか、肌着とか、靴とか、靴下以外は、基本的に古着とか、新古品とか、どこかに欠陥があって安く出ている新古品、とか、そんなのばっかりです。

 

いま着ているTシャツなぞは、新古品で三百円なのですが、同じものを多分、四十枚は買ったと思います。

 

それを何枚か、回して、洗濯して、使っています。年に一枚くらいはダメになります。

 

ダメになるまで使って、Tシャツを成仏させる、というか、そんな状態です。

 

夏場ですと、そのTシャツを回しているだけですから、殆ど、ユニフォーム感覚です。

 

ユニフォームもない訳ではなくて、五百円とか、それくらいで買ったサッカーのクラブチームのもの、とか、代表のものがあって、夏場は使います。

 

ただ、最近、サッカーのクラブチームの、人様のユニフォーム姿をみると、何となく、違う?んではないか?と思うことが、実はあって、あんまり着ない様になりました。

 

何か、人様のユニフォーム姿が、合っていない?という感じを受けることが多いのです。

 

何というか、例えば、大きなデジカメとレンズ姿で歩いている人が、なんとなく、違うんではないか?と感じるのに近い気もするのです。

 

人様は自分の鏡、というか、考え込んで?しまうことがあるのです。

 

スーツ姿で大きなデジカメとレンズを持っている人が、何か違う?と感じる様に、自分のユニフォーム姿も違うのかもしれない?と思ってしまうのです。

 

それと、サッカーのユニフォーム、と、人様のカメラ姿、とを結びつけて考えるのは、おかしいのかもしれないのですが、その様に思うことがあるのです。

 

カメラ姿の話になってしまいましたが、そういう意味では、カメラも、持ち方とか、持つ人は、ファッションというか、コーディネートも考えないといけない時代なのかもしれません。

 

Tシャツの話に戻ると、もう、二十年近く、そのT新古品のシャツを着まわしているので、自分には当たり前になってしまったのですが、新古品や、中古品ばかり着ている生活をしないとならない、というのは、どうなんでしょうか?

 

ただ、新古品で三百円なのに、品物自体は、良いもので、最近の日本の新品のシャツよりも、しっかり作られていて、新品よりも実用になるのです。

 

ちなみに、そのTシャツは、新品で買うと、三千円以上するのだそうです。日本製ではなく、米国製です。縫い方なぞ、よく見てみると、ちょっとハイテクなんです。あって然るべき縫い目がなかったりします。

 

こうなってみると、正式な買い物ではないのに、正式に新品で買ってしまうより、経済的にも良かったりします。

 

そのTシャツを買っていたお店はなくなってしまいました。

 

その後、新しく、古着屋さんが出来たのですが、新品と較べて、物凄い高いお値段なのです。品がいい、という訳ではなく、状態も?というものなのに、古いと高い、とか、そうなっているのです。

 

しかも、単なる高い古着なのに、ヴィンテージ、という言葉が、お店のなかでは散見されます。

 

こうなってみると、古ければヴィンテージ?と、何か、基準だけ勝手に作られている感じがするのです。

 

もちろん、そういうお店では買わないのです。新品でも、品物が良くて、長く使えそうであれば、新品を買うのです。

 

そうなると、もう、正式でない物まで、ヴィンテージとされて、正式でない暮らしをすることが、却って難しくなっている様に思えます。

 

地方都市のフリーマーケットに、たまたま行った事がありますが、古い、というだけで高いのです。都内のフリーマーケットでは、そういう出店は、業者さんの一部です。売れないですし。

 

そうなると、古着ならヴィンテージで高い、というお店は、地方都市のフリーマーケットの感覚を、都内に持ち込んだお店なのかもしれません。

 

古着で慎ましい生活をしていたつもりなのに、慎ましい=正式でない暮らし、が、脅かされている気がするのです。

 

慎ましい生活も根こそぎにしよう、という残酷な市場、騙されない様にしたいと思うのです。

 

きょうの写真があるとしたら、こんな風でしょうか?

 

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シーズン中は高いですが、季節外れの真っ当なお値段はこんなものです。

 

本日もお越し下さりありがとうございます。

 

またのお越しをお待ちしております。

 

 

 

 

 

 

 

正式ではない日々〜カメラ編

 

正式でない日記、にお越し下さりありがとうございます。

 

毎度、正式ではない暮らしのなかで、普段思うことがあります。きょう、きのう、のお話ではなく、ずっとあります。

 

カメラ、なんですね。ちゃんと写ればカメラ、という事で、今どきは、端末をカメラにしている生活で、そこからして正式ではない訳ですが。

 

でも、ちゃんと写ります。自分が思ったイメージで撮れる訳ではないので、やはり、今のところ、端末は端末だと割り切って、あまりカメラも持たず、堕落?している日々であります。

 

しかし、以前、端末ではなく、カメラ、というか、カメラの王様というか、使っていた時代があります。値打ちがあった事も影響してか、騙し取られてしまって、手元にはないのですが。

 

そのカメラの王様は、一応、写るは写ります。特に規格では、問題はありませんでした。

 

とはいえ、レンズの前にフタをしないと、レンズから光が入って、それで、フィルムが少し感光してしまう、とか、あります。

 

うっかり、太陽に向けると、布製のシャッター幕が、虫メガネと黒い紙、の法則にしたがって、焼けてしまう場合もあります。

 

知っているから、気をつけて使わないといけないのですが、知らない人は、やってしまいます。

 

そのカメラは、正式中の正式で、カメラの王様なんですが、そんな具合なのです。

 

正式中の正式かもしれないのですが、今どきなら、欠陥商品です。

 

けれども、未だに人気は高く、値段もそうなのですが、正式なのに、今どきなら、欠陥カメラなのです。

 

そのカメラは趣味の世界といえば、そうなのかもしれません。

 

そのカメラのアクセサリーを特集している本があるのですが、面白いことが書いてあります。今どきなら、欠陥アクセサリーなのですが。

 

すこし引用してみます。

 

「…このフードは、レンズの回転を考慮しなかったので、明らかに失敗作であると思う…他に手本となるものがない状態で製品を作り上げるのは、大変なことなのである…」

 

という訳で、欠陥があっても、「他に手本となるものがない状態で製品を作り上げるのは、大変なことなのである」と、弁護されているのです。

 

やっぱり、偉いだけあって、黒は黒でも白くなる、といいますか、偉い、というのは、欠陥があっても偉いのだ、という、なにか、いまどきの世の中のことが、書かれている様にも思われるのであります。

 

しかも、高い。使うのは、気をつかう、という訳で、製品の完成度というのは、もはやどうでもよくなっているのであります。

 

あばたもえくぼ、という言葉がありますが、みんなで惚れれば怖くないのであります。

 

正式中の正式なのに、製品として欠陥があっても、正式というのは、ある種の感慨を感じてしまうのであります。

 

誰が正式と言ったのか、そして、正式中の正式になったのですが、他に手本がなかったので、形にしただけ偉い、と、当時の先駆性が、現在の欠陥より、偉くなってしまうのであります。

 

人間というものは、なかなか難しい、というか、一旦、評価が決まると、時間が止まってしまい、その後も評価はそのままで、ある種の伝説になってしまうのでしょう。

 

残念ながら、そのカメラで撮った写真は、フィルムしか残っておらず、正式ではない写真を一つおとどけしたいと思います。

 

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正式なお店なのですが、機能していないのかも知れず、伝説になれなかった例だと思われます。

 

本日もありがとうございます。

 

またのお越しをお待ちしております。

 

正式でない生活〜ハウツー本編

正式でない日記、にお越し下さりありがとうございます。

 

正式を正式にやる、というのは、自分の場合は難題です。

 

正式なことを正式でなくやってみる、というのは、ある意味、「取り組み」というのかもしれません。

 

そういう意味では、取り組みの多い日常をすごしているのかもしれないのですが、正式な人が、正式ではいけない、とか、言い出すこともある訳でありまして、本日は、正式な方の、その様な発言を読んでしまったのですね。

 

その本では、「始めから順番に読み進めて、実践してください」とあります。

 

でも、その順番に沿ってやってみると、どうも自分は、うまく行かないのです。

 

それで、もういいや、と思って、その先を読んでしまって、それでも、違うなあ、と思いながら、やっていくと、正式な人が書いているんです。

 

「納得しないで下さい。鵜呑みにしないで下さい」

 

と、あるんです。

 

これ、単純に考えると、いわゆる、ダブルバインド、というヤツですね。矛盾する命題を、同時に突きつけてくる、というヤツです。

 

ホントに、正式な人は、考えて書いてるのかなー?と思ってしまうのであります。

 

しかし、ひょっとすると、その正式な人は、達人で、ワザとダブルバインドをしかけているのかもしれない?とか思ってしまうのです。正式な人の為せる技でしょうか?

 

そうすると、ああ、もう、勝手にやれ、ってことだね、とか、居直ってしまうのですが、ハウツー本で、それでいいのか?とか思ったりします。

 

面倒なので、そういうことなら、と、仕方なく、自分で、勝手に、その本より、自分に向いているかもしれないやり方を、作ってしまうのです。

 

なんだ、正式な人に言われた通りやるより、勝手にやった方が、うまくいくではないか、と、自分に呆れてしまうのであります。

 

そうすると、その正式な人はどうなるんでしょうか?

 

それとも、そこで勝手に、自分のやり方を作ってしまったので、自分が正式な人になってしまうのでしょうか?

 

その様なはなしで、正式でない自分が、勝手にやり方をつくってしまうと、自分は正式、なのでしょうか?あるいは、正式な人から、異端とされ、正式でないことをやった事が、正式な人の利権を侵害した、という話になるのでしょうか?

 

やっぱり、自分は正式には向いていないなー、と、きょうも正式ではない日を送るのでした。

 

仕方がないので、これから、本日百円の餃子を四枚か八枚か、食べにいこうと思います。

 

きょうは一枚も写真を撮っていないのですが、なんとなく、正式と正式でないものの関係があらわれている写真は、これかもしれません。

 

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きょうもお越し下さりありがとうございます。

 

気が向いたら、またよろしくお願い致します。

正式でない日々〜将棋編

正式でない日記にお越し下さりありがとうございます。

 

正式である、というのも難しいですが、正式でないというのも難しいですね。

 

きょうは将棋のハンデ戦のスパーリングの日でした。飛車角落ち、で理解していただけるとありがたいのですが、自分の方が飛車角を落とすのです。

 

自分が飛車角を落とす、というのは、相手に、正しい指し方、正しい筋にみちびく、という意味があります。

 

正式な言い方をすれば、指導将棋です。別にプロでもなんでもありませんが、ハンデ戦にしにいと、勝負にならないのですね。

 

でも、ハンデをつけられること自体が屈辱?と思う人もいると思います。きょうの方は、長く飛車角落ちを指していて、五割近く勝ってくれていると思います。

 

指導?する側は、ある意味で、勝ってしまってはいけない、というか、こちらは、勝ってもらわないと、指導になっていない訳です。

 

幸い、きょうは、一手違いで、二局とも勝ってもらえました。この一手違いで勝ってもらう、というのが大切です。大差では意味がありません。

 

皮肉なことに、正式でない自分が、正式な指し方を途中までするのですが、途中から、相手が正式でない手を指してくるので、こちらも正式でない手を指すことになります。

 

苦しまぎれの手が連発になり、泥仕合になっていきます。

 

でも、正式な指し方は、ずいぶんおぼえて下さったのに、相手は、正式な手より、自分の感覚の手を指したくなってくるのです。

 

そうすると、泥仕合になる訳で、お互い、正式でないことが快感になってくるのです。

 

将棋にあっても、この様に、正式でない日々が続くのでした。

 

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これ、もっとおおきく写らないんでしょうか?

 

やり方がわからないので、これも正式ではないということで、ひょっとしたら、タッチすれば、大きくなるかもしれません。

 

でも、大きくしても、なんなんでしょうね?これは?

 

きょうもお越し下さりありがとうございます。

 

また気が向いたらおいで下さい。

正式ではないお話〜タバコ編

正式ではない日記においで下さりありがとうございます。

 

きょうは朝五時過ぎに目が覚めてしまいました。

 

いつもの様に、ジュリア・キャメロン式のモーニングページを書き、ご飯を炊いたのですが、そろそろ白米がありません。十六穀米もそろそろありません。貧乏自慢状態です。

 

ご飯が炊けるまで、本を読んで、ご飯を食べると本を読んで。

 

しかし、きょうは、眠気がおそって来て、眠ることにしました。羽生さんと天彦さんの順位戦もあるというのに。

 

眠りを選んだのは、他にも理由があって、禁煙という恐ろしい作業に取り組もうと思い、なかなか厳しいものがあるので、眠ってしまえ、と眠気にまかせて、そうしたのです。

 

しかし、禁煙がそう簡単にいく筈もなく、数時間で挫折して、さっき一本吸ったのです。

 

本当においしいタバコは、パイプタバコの方にありますが、パイプタバコは、時間と場所を設定しないと吸えないことと、道具の手入れもあって、今どき、喫煙所が厳しい世の中にあっては、難しいジャンルなのです。

 

パイプタバコの方が、ずっと安くて、質の高い葉っぱがあるのですが、世間の冷たい風に、パイプを使うのも、ストレスになるので、やめてしまいました。

 

困ったなあ、と思いつつ、紙巻きタバコは、高いし、そうなると、もう禁煙しかないのです。全く情け無いことですが、禁煙ファシズムの風に抵抗するのは難しいのです。

 

タバコについては、その様な事情もあり、存在すること自体がストレスな自分には、せめてタバコを、と思うのですが、タバコを吸う人間は罰してもいい、という空気に、更にストレスが増すのです。

 

タバコを吸うだけで、正式でない人間、というご時世と、その洗脳には耐えられず、できれば、タバコからも見放されて、入院なぞ出来たら、その方が楽かもしれません。

 

気が向いたら、タバコについても、タバコから見放される方法について、書いてみたいと思います。

 

喫煙者の愚痴を聞いて下さりありがとうございます。

 

また別の、正式ではないお話を書いていけたらと思います。

 

よろしくお願い致します。

 

ありがとうございます。

 

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正式でない日常を不定期に書きます

最初の日記というか、テストです。

 

風変わりな生活と、マイナー?な考えと感覚、その様なものを不定期で書かせていただきます。

 

日常の写真も載せるかも知れません。f:id:jikosoushitunotaiken:20190627003400j:image

 

きのうはこんな写真でしたが、ここに貼り付けてができているでしょうか?

 

とりあえずは、テストです。

 

よろしくお願い致します。